老子は常々、私達在家に対して坐禅を通して、自分が自分に徹し、自分が心に徹して、ずーっとやっていくと、日常生活に於いて必ずどこかで役立つときがあるいうことを言っていたから、そう願って与えて下さったと思い老子の大慈悲に感謝しているところです。

又、老子は地元出身の管長として自坊の慈光禅会、ヤマハ禅会とは別に周辺地域3箇所にも禅会を開いていて、一般人との衆縁も広く、和顔と愛語で厚く接し、慈悲を以って一般大衆に当たるところは、日々積み重ねてきた老子の陰徳によるものと改めて深く感謝するところです。昭和59年12月20日、脳卒中の病で波羅窟老大師59歳をもつて遷化。その後の管長には荒金天倫老子、大井際断老子と続いて現在に至っている。

大晦日に鐘を叩きながら元旦の年頭挨拶に数人で訪れた際に侍者が持ってきたお茶をいただきながら笑顔で接してくれた。奥山では1番高くて見晴しのよいあの部屋には今では一般人としてとても入ることができないと思うと、私達は貴重な体験をさせて戴いたとつくづく思っています。

追記 老子が提唱するなかで聞いた貴重な話

日本がポッダム宣言を受諾し終戦を国民に告げる玉音放送は天皇自ら詔書を朗読する形で行われたたが、ここまでに至るまでに苦悩しつづけた終戦処理内閣、の鈴木貫太郎首相が、ある日、地方に出かけた際、帰りに三島の龍沢寺に寄って山本玄峰老子に会っている。天皇のお言葉のなかにあった「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文面が詔書に入ったのは玄峰老子との対談がヒントになったといわれている。
(終わり)

参考:方広寺歴代の管長略譜
 

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